人は誰しも幼時の神話を持つ。
僕にも2つ3つ、その類いの記憶がある。
3歳だったか4歳だったか、僕は父母と、今はない古い実家の4畳半に起居していた。
ある時、それはきっと僕一人の時であったが、部屋の東と南の2面を覆うガラス戸の鍵穴から、黒い手首が出ているのを見た。
その時の印象は、無数の鍵穴から無数の手首が出ているというものであったが、考えてみれば鍵穴は両方向の2箇所しかない。
しかし、とにかく、黒いペンキがまだ光沢を失わずしっかりと塗られたような、真っ黒な手首が窓と直角に生えているのを見た。
恐怖という感覚はまだなかった。しかしはっきりと、嫌なものを見たという感触は有った。
長じて後、このことは誰にも喋ってはいない。
今日の夕方、一雨去った後、夕日が突然姿を表し、家の玄関の西向きの窓から光を注いだ。
明かりを点けようと伸ばした手の影が、前述の神話を急に蘇らせ、慌ててカメラを取りに行った。