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2018年 05月 09日

少し長いが、思ったこと

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ここ数日とにかくベッドの上にいる。積ン読だった本の棚卸しには絶好のチャンスだ。

昨日から今日にかけて、あの故・西部邁さんの絶筆「保守の遺言」を読んだ。実は西部邁を読むのは初めてである。

本人のあとがきの日付が平成30115日。自裁(自殺)が121日だから、やはり生々しい。


これまでメディアのニュース的にしかこの人の存在を知らなかった。

初めて、かつ最期の文章を読んだ訳なので、この本から感じたことを軽々に書くわけにも行かず、控える。

ただ僕にとり意外だったのは、本の最後の方で彼が鈴木大拙に触れているところである。あらかたの文意をパッチワークで示せば、少し長いがこうだ。

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・・・「無常の中の恒常」ということとのつながりで(和辻哲郎や鈴木大拙のように)日本人のスピリチュアリティ(霊性)を浮かび上がらせようとしたものもいた。

・・・しかし僕は霊性だの信仰だのと耳にすると、そこに「集団のモード」以上のものを感じとれないのだ。そもそもそうした信仰の種がまかれるべき土壌としての伝統はあらかた消えてしまったのではないか。というより、日本に独特のカスタム(慣習)はまだ少々は残っているのかもしれないが、その慣習の意味を意識的にとらえ直すこととしての伝統が(中略)なくなったのである。

・・・そうした伝統の喪失は現代日本人の利便性や収益性に心を奪われてしまったことの結果である。

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ここで西部邁は明らかに鈴木大拙著「日本的霊性」を念頭に置いている。

しかし「日本的霊性」は戦争末期の昭和19年に書かれ出版されたものだ。それを今、西部邁が自殺する現在の風潮と照合することに、いささかの飛躍、違和感を覚える。

しかし、大きな流れとしては西部邁が指摘するように、「(カスタムや)伝統の喪失は現代日本人の利便性や収益性に心を奪われてしまったことの結果である」。


翻って僕自身を見つめると、現状・現況を振り払う為であるかのように闇雲に本に当たり、結果として大拙の「日本的霊性」に遭遇し、挫折を繰り返しながら読了し、結果として現在円覚寺で坐禅を組むという行動に結びついた。

ということは、僕は西部邁が蔑むところの「マス」(詳細はこの本を読んで下さい)の一員ではあったが、自分でも不思議である発意の結果、「マス」を離れてカスタム、伝統に回帰しようとしている、或いは衆生が本来持つ霊性を確認しようともがいている、稀有な例と言えまいか。

更に言えば、毎回の坐禅には実に多くの人が参加しているし、紅毛碧眼の美少女達もルーティンで参加している。


とりとめがない。

要するに、泉下の西部さん、マスコミは澱んでいるかもしれないが、衆生は今でもそんなに捨てたものではありませんよ、とお伝えしたい。

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by libra-mikio | 2018-05-09 20:10 | Mic記 | Comments(0)


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