真鶴の巨木につき先日 「・・・しかしその巨きさが現代人の間尺に合わずノド元がグッとなるほど不気味でもある」 と書いた。
崇高感はあるのだが、 何か不気味なものを内包している。 ・・・何故不気味なのか? 考えてみた。
例えば高野山や戸隠神社の杉の巨木をみた時、 その荘厳に打たれることはあっても、 不気味を感じることは無かろう。
もちろん私見だが、杉並木の巨木はあくまで人間が植えたものであり、 人間の叡智の歴史を体現しているのだと思う。 つまり巨杉(きょさん)は連綿とした人間の知性の歴史を表していると言える。
ところが真鶴の巨木はそのようなヤワな衣はハナから纏わず、 むき出しの 「いのち」 であり、 人の寿命の常識を超えて、 森の中のあちこちにピンで存在している。
( 画一的な杉並木では並木という組織が主張するので、 その中の 「この杉」 という意識はおのずと無く、 常に集合体として捉えられている )
その巨木の存在自体がボクにとっては異形のものであり、 つまりは怖いのだろう。
OLYMPUS OM-4 + G.ZUIKO50mm F1.4 + 400PRESTO