Mickey's world

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2019年 03月 19日

雨の贈り物

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横須賀駅で降りたとき、降って来るかもしれないという貘とした予感はあった。

そして、濡れ始めたらばきっと傘を買い求め、しかし傘売り場は容易に見つからず濡れ鼠になり、いざ傘を手に入れて表に出たら、おそらく雨は上がるのではないか、という予感もあった。

善い方向の予感はとんと当たらぬが、このような愚にも付かぬことにかけては妙に予知能力が高い。

そうなった。


しかし雨は僕にこの上ない贈り物をくれた。

土曜の夜。

気温も下がり、散策する人とてない、静かな夜。

それが僕にはまたとない贈り物だ。










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街路灯も人に役立つ人工物だが、サン=テグジュペリのガス灯のような風情はない。

一方椅子に僕は深い人間味を感じる。

椅子に人間味・・・と言っても江戸川乱歩の椅子男とは違う。

荒涼とした、或いは寄る辺無きがごとく眼前に拡がる景色の中に若し椅子があったら!

その時僕は声を呑み込みつつも、僕は一人じゃなかったんだ、という安堵を覚えるのだ。







































# by libra-mikio | 2019-03-19 19:49 | | Comments(2)
2019年 03月 16日

寂しいカタクリ

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相模原にカタクリの自生群落がある。

早く目覚めた今日、昨夜から決めていたその場所へ行った。

8時前。気温は10度に満たない。時期がまだ早かった。

本来なら夢のようにカタクリが辺り一面に咲いているはずだった。





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群落の外周を何度も回っているうちに、幸い薄雲も取れ、気温も少し上がってきた。

すると、気づかぬうちにあちこちで花が開き始めた。

自然の摂理とは本当に大したものだ。

僕の眼は高速度撮影のようではないが、もし機械を据えていたら、肩をすくめてすぼんでいたカタクリが音もなく開き、その花弁が徐々に反り返っていく姿が捉えられたろう。





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10時を過ぎた頃にはいかにもカタクリらしい姿を僕に見せてくれるようになった。

でも思うんだ。

カタクリが一生懸命に咲こうとする姿は、なんとなく寂しかった。

僕自身の来し方をカタクリが投影しているようで。

せめて今日君たちは、はじめから美しい姿を僕に見せてほしかった。

そんな気がした。

























# by libra-mikio | 2019-03-16 23:33 | | Comments(2)
2019年 03月 11日

この8年

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あの地震、大津波、そしてその後の過酷な状況により命を落とされた方々のご冥福をお祈りする。

どんなにか苦しく、冷たく、恐ろしかったことであろう。

また今なお苦しみの継続を余儀なくされている方々に対しては掛ける言葉を失う。


3.11はすべての日本国民に人生の節目を強制的に焼き付けたのではないだろうか。

これだけ各人の価値観が渾然とし相対化した現世にあって、「あの日」は絶対的に共通した「時」になった。

あの「時」以来もちろん各人各様の来し方があるが、今ある個々人の出発点は一様にあの日なのではないか。

あの日から8年が経った。


僕にとってのこの8年はどのようなものであったか。

たまたま壮年期であったことも手伝い、実に様々な出来事に遭遇し、様々な判断をし、様々な結果を得た。

或いは、残念ながら結果を得られなかったこともある。

でも一つ言えるのは、多少気恥ずかしい言葉ではあるが、がむしゃらに鬼神のように働いた、ということだ。

僕にとってこの8年は、あたかも20年に匹敵するくらいに内容の濃い時間であった。

そして僕は、その期間になし得たこと、なし得なかったこと、褒められたこと、まさかのように謗られたこと、すべてをひっくるめて、自分の行為を肯定する。

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# by libra-mikio | 2019-03-11 22:06 | 陰翳 | Comments(0)
2019年 03月 10日

破れ庭の沈丁花

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先週も先々週も沈丁花を探していた。

近所の家の庭に気の早い株があり、もうその頃から馥郁たる、そしてどこかアンニュイな香りを奏で始めていた。


でも、小奇麗な庭先の、まあるく刈り込まれた沈丁花ではなく、なにかこう、型にはまらず勝手に咲く姿が見たい。

ないものねだりは小さい頃からの性であり、これはもう変えることは出来ないし、変える気もない。


今日、鎌倉扇ガ谷の海蔵寺に続く道を歩いていると、あの香りが濃厚に漂い始めた。

どこだろう。

すると、もう今は誰も住んでいないと思われる古い家の庭に、この沈丁花は咲いていた。

全くのぼうぼうという訳ではないが、久しく手入れがなされていないのは一目瞭然だった。


素敵じゃないか!

僕が願っていたとおり、純白と紫紺の花が、破れ庭に咲き競っていた。

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# by libra-mikio | 2019-03-10 21:07 | | Comments(0)
2019年 02月 26日

大きな木

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梅林の梅まつりを悪く言う気はないが、僕は自由奔放に咲く梅が好きだ。

この農家の庭先では、白梅紅梅が見事なまでに咲きあげている。

なんとも爽快じゃないか。

この家の人が羨ましい。







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みかん山と畑の境にも大きな白梅があった。

そもそも僕は大きな木が好きなのだ。

どんな樹種であれ、大きな木はいい。

見ていてスカッとする。







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軽トラが停まるすぐ脇の紅梅はまだ若い。

今、青春の入り口くらいかな。

あと10年もすれば、見ごたえのある姿になろう。

あと20年もすれば、更に大きな木になり、もしかするとまた遠くから写真を撮る人が現れるかもしれない。

きっとその人は言うだろう。

「僕は大きな木が好きなんだ」
















# by libra-mikio | 2019-02-26 22:44 | | Comments(0)
2019年 02月 24日

素敵な週末

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先週、痛風発作におそわれた。慣れてはいるがどうにも歩けない。仕方なく水曜、木曜と会社を休んでしまった。

土曜日。坐りたい。でも坐れるだろうか。

午前中、坐布を厚めにして恐る恐る自宅の客間で試すと、痛いところは無関係なことが判った。

これなら行ける!


足を引き摺りながらの午後の円覚寺。居士林の坐布をいつもより2枚多く借りて坐ると、なんとも快適なのである。

おまけに坐布を厚くしたことにより、結跏趺坐が実に容易にできることが判った。a full lotus positionだ。

結果として結跏趺坐が貫徹出来た。これは僕にとり素晴らしいことだ。


今日、写真を撮りに出掛けたが、昨日の坐禅の出来が良かったせいか、車の運転が何時になくおおらかだった。

人は人。自分は自分。

しかしもちろん自分は相手が有っての相対的なもの。

であれば相手にとって僕も作用している訳だ。では僕は、その方に悪い作用を与えなければ善い。

たったこれだけのこと。


昨日今日と、素敵な週末を過ごせたことに感謝!

















# by libra-mikio | 2019-02-24 20:29 | Mic記 | Comments(0)
2019年 02月 16日

匂いの境界

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今日、円覚寺居士林で坐っていた時、新鮮な感覚を得た。


居士林では当然のことながら線香が焚かれる。

甘すぎず、絶妙で実に深い香りである。


坐っている。

線香の香りに包まれている。

すると風が起き、全開の窓から外の冷気が入って来る。

その空気が僕をよぎる時、はっきりと、線香の領域と外気の領域の境界が感得出来た。

その境界は変化の過程を踏まず刹那に切り替わった。

鼻孔に入る外気は、これまで感じたことのない、この上なく清冽なものだった。


その境界を感得できたのは、ほんの数瞬のことだった。

それは3回起きた。

何という満足感であったことか。


正直に言う。

願って止まないその至高のときは、その後、二度と訪れなかった。






























# by libra-mikio | 2019-02-16 22:53 | Mic記 | Comments(0)
2019年 02月 13日

習うより慣れろ

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恥ずかしながら、お正月から英会話学校に通い始めた。

それも昨冬のボーナスを奮発して、個人レッスン形式の学校だ。

若い頃はアメリカ、カナダで商談もこなした僕だが、あれから30有余年が経ち、なんたってコトバが出てこない。

時制に関する文法も怪しかったが、この前のインフルエンザ休暇(笑)の際、改めてグラマーの本を読み、完了形のなんたるか、はたまた「私はその試合を見て興奮した」がなんで、「私はその試合に興奮させられた」ではなく「その試合は私を興奮させた」のほうがネイティブ感があるのかなど(主語の問題ね)、不得要領ながらなんとなく納得はした。

でも、納得したということは「知った・知ってる」ということであり、「使える」には程遠い。


ネイティブ感、と書いたが、そもそもネイティブ自身も意外と文法的になぜそうなるかという理由を知らないことが判った。

例えば、be angry with someone というフレーズがあるが、なんで前置詞が with なのか?

angryという以上、~に対してとか、~に向かってという趣がある。それがなぜ「いっしょに」とのニュアンスの with を使うのか。

これをその日のインストラクターであるシドニー産のデイヴィッドに訪ねたが、結局「うーん知らない、でも皆そう言ってる」とのことであった。

ところがどっこい、インフル休みに読んだ本には「そもそもwith にはvs. の意味があった」と書いてあった。

なるほど、それなら良く判る。


何がいいたいかと言うと、結局つまるところ、ネイティブだって何故そうなるのか判らずに使っている、という事実を認識した、ということだ。

つまり、習うより慣れろの世界なんだな。

「知」ではなく「実践」。

これはもう、禅の世界である


北鎌倉 円覚寺。

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# by libra-mikio | 2019-02-13 21:55 | Mic記 | Comments(0)
2019年 02月 11日

福寿草

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福寿草。

世の中にこれほど善い名前のものがあるだろうか。


浅い春に凍えてくすんだ地面を割って、こんなにも明るい姿を僕たちに見せてくれる。

天からの光が地上の彼女に降り、彼女は光り輝く。

その輝きは、僕らに希望を与える。


福寿草。

その輝きを僕は慈しむ。


北鎌倉 円覚寺。

















# by libra-mikio | 2019-02-11 21:55 | 季節 | Comments(0)
2019年 02月 03日

冬があるから春が来る

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何の屈託もない時間を持つことができるとは、何と素敵なことなのだろう。


折しも小春日和の中、植物たちがどうなっているのか知りたくて、久々に表に出る。


マグノリアの花芽が、もうしっかりとデビューの準備を始めている。

梅たちも負けてはおらず、先に舞台に立った菜の花との競演を夢見て蕾を膨らませている。


改めて、冬があるから、春が来るのだと実感する。

そして、冬に春待つ心の人でありたい、というあの墓碑銘の意味が、今更ながら判ったような気がする。

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# by libra-mikio | 2019-02-03 20:53 | Mic記 | Comments(2)
2019年 02月 02日

天体望遠鏡!!!

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母が入所した当初はマジで母ロス気分であったが、今日、電動ベッドやあちこちに設置していた手摺などを片っ端からレンタル業者に返却したら、気分がさっぱりと切り替わった。


ほぼ1年前に、天体望遠鏡をゲットしたと書いた。

その経緯であるが、僕の定年の区切りに会社がプレゼントカタログをくれた。

高級温泉旅館のクーポンや、神戸牛など盛り沢山であったが、最後まで迷ったのが、ユニセフへの寄付と、この天体望遠鏡だった。

ずいぶん悩んだ末、最終的に望遠鏡を選び、1年前の正月に手許に届いたのだが、様々な状況により開梱もせず大事にとっておいた。

そして今日突然、今晩こいつで星を見ようと決め、組み立てた。


40年以上前に本気で星を見ていた頃に使っていたタカハシ製作所製望遠鏡(TS80mm屈折赤道儀)に比べればおもちゃである。

そう思いつつ、オリオン座のM42星雲、おうし座のM45、大犬座のM41散開星団などをを見たのだが、その印象ったら、もう素晴らしいのである。

おもちゃと思った光学系は70mmF10の明るさで収差も目立たず、付属の26mm接眼鏡で見るプレアデス星団の美しさには息を飲んだ。

思わずうなった。

これで架台がしっかりしていれば言うことはないが、逆にどこにでも持っていける、軽くて素晴らしいおもちゃと考えれば何の問題もない。

プレアデスの乙女たちをこんなにも美しく見せてくれた天体望遠鏡に、今、少し感動している。
















# by libra-mikio | 2019-02-02 21:54 | | Comments(0)
2019年 01月 30日

入所

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とうとう母が、特別養護老人ホームに入所した。

これまでの自分の気分では、入所出来た!という一色で良いはずだったのに、入所してしまった、という想定外のマインドが押し寄せている。


入所は昨日のことである。

年末から今まで文字通り、実にすったもんだ、紆余曲折があったが、決まるときは速いものだった。


そして想定外の母ロスの心境である。

自分で自分に対し、えっ、母ロス?、って突っ込んでいるが、彼女が居なくなった部屋のがらんどうさはなんという虚ろだろう。

あ、母は存命で、ただホームに行っただけなのだが、最後のひと月、また転ばれちゃたまんないということでトイレに行くにも、居間に行くにも、すべて手を引き、腰を抱えての作業を繰り返した。

最後の密着度合いは僕の介護の限界(身体より心)に近かったのだが、なんとその対象が居なくなった途端、虚ろになったのだ。


自分の心の揺らぎにつき言葉では説明できないが、僕は、僕の心のオーナーなのだから、なんとか僕の心を鎮めてやろうと思い、今朝は早くから彼女の部屋の片付けを始めた。

これは案外奏功し、従い、斯様にブログを書いているのである。






















# by libra-mikio | 2019-01-30 20:22 | Mic記 | Comments(0)
2019年 01月 14日

水仙

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水仙の香りにつつまれたくなった。

まだ、早いのかしら。・・・それとも、もうその時が来ているのかしら。

伊豆を考えたが、越えざるを得ない峠は路面が凍っているかもしれない。

それでは城ヶ島に行ってみよう。

行った先の城ヶ島の水仙は、うまいことに、「14番目の月」だった。





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水仙の香りにつつまれたいと思ってはいたが、まだ、辺り一面に芳香が満ちているということではない。

それでもかそけき風がたてば、奥ゆかしいながらもあの清純な香りが、「あのう・・・」と言いながら僕に寄り添う。

そして、光が水仙をアプローズしている場面を切り撮る。





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R134から派生する城ヶ島への往還の、帰路の渋滞は身に染みているので一旦油壺に逃げる。

このハーバーについては以前も書いたが、日本ではないような気がする。

僕はスカンジナビアのハーバーを俯瞰しているのか。

折しも一杯のクルーザーが出て行く。

これから出るということは、何処かに帰るということか。

ボンボヤージュ。






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帰り道、葉山で落日し、その光景はえもいわれぬものであったがクルマを停める余地はなく、ただ呆然と美を眺めていた。

しかし鎌倉、由比ヶ浜でとうとう我慢ができなくなり、ノロノロ運転のさなか、助手席越しにシャッターを切った。

冬の入り日が落ち、海と空の区別が曖昧になって行く誰彼時。




















# by libra-mikio | 2019-01-14 22:16 | | Comments(0)
2019年 01月 10日

知と実践

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知と実践、とは大層上段に構えたタイトルだが、実感を持ったので自分のために記録する。


知と実践は別物でありながら、互いに補完しあう。補完しあわねば意味がない。

気づかせてくれたのは、古本屋で何気なく求めた「禅の実践(講座 禅 第二巻・筑摩書房・S49)」という本に収められた、ドイツ人女性リース・グレーニングという方の「参禅記」なる一稿である(1950年代後半)。

これは凄い。凄かった。

訳あって遥かドイツから京都相国寺の僧堂に居士(在家)として参禅したこの女性が、いかにして臘八大接心(ろうはつだいせっしん、面倒臭いから説明はしない)に臨んだか、そしてどうなったか、が克明に著されている。


禅は徹底的に実践である(僕ごときには到底窺いしれぬ世界である)。

彼女は、禅に関しても非常に高度なインテリジェンスを持ちつつも、禅が掴めず七転八倒し、文字通り半狂乱といってよい状態になる。(然る後、彼女は一歩、克服する)

読んで、泣けた。

斯様に、「実践」とは(禅に於いてのみならず)すざまじいエナジーを必要とするものなのである。

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# by libra-mikio | 2019-01-10 21:34 | Mic記 | Comments(0)
2019年 01月 06日

外外介護から

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新聞に、外外介護という見慣れない見出しがあった。

記事を読んで初めて、日本に居る外国人の被介護者を、日本に居る外国人が介護することだと知った。

是非の次元をすでに通り抜け、現実に始まっているという。

日本という国のこの先行きにつき、様々な想いが沸き起こる記事であった。


今後日本は、どのようにして国を発展していくのか、or、どのようにして維持していくのか。


司馬遼太郎はいいときに死んだな、と思うことがしばしばだが、その司馬さんは太平洋戦争に駆り出され艱難辛苦を舐め、僕は戦争をも知らないその後のジェネレーションであることを思う時、いい時に・・・なんていう言葉を吐くのは非常に失礼なことだと、いつも自問自答する。

でもやっぱり、司馬さんはいい潮目でこの世、この日本から引退されたのだと思わざるを得ない。


昨年の、鎌倉の紅葉は度重なった台風の影響で海の潮をかぶり、非常に残念なものになったことは皆様もご存知と思う。

しかし、東慶寺のとある楓は今黄葉し、午後の晩い光を贅沢に振りまいていた。

外からの影響ではなく、自分自身に軸足を置くという、ごく当たり前の自然界の流儀を見た想いがした。

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# by libra-mikio | 2019-01-06 22:03 | Mic記 | Comments(0)
2019年 01月 05日

坐り初め

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前回、新年にしてはいささか暗いトーンになってしまったが、今回はいささか明るいトーンに転ずる。


今日、円覚寺居士林にて坐り初めを行った。(一般的に坐り初めという言葉があるかどうかは知らない)

そして今日の坐禅の最中、僕は久方ぶりに足の痛みもなく、意識も散らず、落ち着くことができた。

年に何度かこのように素敵な瞬間が訪れるのだが、今日はそういう日だった。


昨日、母に、近々特養に行ってもらうことを打診し、母はそれを諾とした。

事前に、親族の諒解を得た。

叔父は、なぜお前がそこまで頑張ったのかが判らないが、よくやった、と言ってくれた。

法政で福祉を専攻し、現在障がい者施設でバイトをしている次男からは、専門家にしかできないことがあるのだから、もっと早く決断すべきだったという意見を聞いた。

他の親族からも、もう充分だと言われた。

実際には特養の空きが出なければ何も始まらないが、要介護認定2であった昨夏にそれとなく打診した時は200人待ちとのことであったが、要介護4となった今は順位も繰り上がるのだそうだ。






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居士林から龍隠庵に続く脇の小径も真冬の只中の風情だが、なにがなし、僕の眼には明るく映る。



# by libra-mikio | 2019-01-05 19:24 | Mic記 | Comments(0)
2019年 01月 03日

正月

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年末29日、母がまた室内で転び左手首を折った。

入院はしていないが、夏以降かろうじて回復してきた日々の生活が、また逆戻りだ。

互いに虚ろになる眼。

暦は確かに巡り、順当に正月は来るが、人の世はなぜこれほど理不尽なのか。

精一杯明るくなろうとは、している。



# by libra-mikio | 2019-01-03 22:31 | Mic記 | Comments(0)
2018年 12月 28日

Antonio’s Song

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今日は有給休暇取得促進日でお休み。

前から意味もよく知らずに歌っていて気になっていた Antonio’s SongMichael Franks) の歌詞を調べた。

そもそもAntonioって一体誰?・・・なんと Antonio Carlos Jobim なのね。

アメリカ人の優秀なアーチスト、Michael Franks が彼に捧げた歌だったのね。


まずノッケの、”Antonio lives life's frevo

frevoって何?

集合知に尋ねると、”Any of a wide range of music and dance styles originating from ・・・ traditionally associated with Brazilian carnival.”

なるほど。


次なるハテナは、”The blankets they give the Indians, Only make them die.”

訳せるけど何を言っているのか全く解らなかった。

するとこんな記述に遭遇。

“Blankets they give the Indians. Might refer to the Mandan smallpox epidemic of 1837.Some have claimed that the US Army purposely gave them disease-infested blankets.”

そんなことがあったのですね。


最後に(ホントはもっと他に山ほどあるが)、“And lost in La Califusa When most of my hope was gone”

この“La Califusa“って全く判らない。おそらくカリフォルニア、ロサンジェルスのことと推測はできても。

すると更にこんな記述に遭遇。

This phrase is an anagram for L.A. (Los Angeles), California, USA where Michael essentially started in the music scene before relocating to the New York area where he now resides.”

anagram・・・判りますか? 綴り換え遊び、なんですって。

無理だよね、判れって言われても。


そもそもこのマイケル・フランクスってどういう人かと云うと、

・・・1944918日、カリフォルニア州ラ・ホヤに生まれました。カナダのモントリオール大学の博士号を取得していて、映画音楽を作ったり、大学で比較文学を教えたこともあります。また、日本にも関心が深く、結婚式は日本で挙げました。・・・

だそうです。


今日の午前中および午後の2時間ほどは、はこの曲に付きっきりで過ごした。

こういう、何の役にも立たないことに時間を費やすって、最高のお休みの過ごし方だと思わないかい?





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Appendix


Michael Franks "Antonio's Song"


Antonio lives life's frevo

Antonio prays for truth

Antonio says our friendship

Is a hundred-proof


アントニオは人生のフレヴォを生きる

アントニオは真実のために祈る

アントニオは言う、ボクらの友情は

100%確かなものさ


The vulture that circles Rio

Hangs-in this L.A. sky

The blankets they give the Indians

Only make them die


リオを飛び回るコンドルは

今、このLAの空に浮いている

インディアンに与えた毛布は

彼らを死なせただけだ


But sing the Song

Forgotten for so long

And let the Music flow

Like Light into the Rainbow

We know the Dance,

We have We still have the chance

To break these chains and flow

Like Light into the Rainbow


でも歌おう

永く忘れられていた歌を

そして音楽を流そう

虹に向かう光のように

ボクらは大事なダンスを知っている

まだ、まだまだチャンスは残っているんだ

この鎖を解いて、音楽を流そう

虹に向かう光のように


We sing the Song

Forgotten for so long

And let the Music flow

Like Light into the Rainbow

We know the Dance,

We have We still have the chance

To break these chains and flow

Like Light into the Rainbow


さあ歌おう

永く忘れられていた歌を

そして音楽を流そう

虹に向かう光のように

ボクらは大事なダンスを知っている

まだ、まだまだチャンスは残っているんだ

この鎖を解いて、音楽を流そう

虹に向かう光のように


Antonio loves the desert

Antonio prays for rain

Antonio knows that Pleasure

Is the child of Pain


アントニオは砂漠を愛する

アントニオは雨に祈る

アントニオは喜びとは何かをしっている

それは苦痛の子供だと


And lost in La Califusa

When most of my hope was gone

Antonio's samba led me

To the Amazon


ロスで思案に悩み

ボクの希望がほとんど消えていった時

アントニオのサンバは連れて行ってくれる

アマゾン川へと


We sing the Song

Forgotten for so long

And let the Music flow

Like Light into the Rainbow

We know the Dance,

We have We still have the chance

To break these chains and flow

Like Light into the Rainbow


さあ歌おう

永く忘れられていた歌を

そして音楽を流そう

虹に向かう光のように

ボクらは大事なダンスを知っている

まだ、まだまだチャンスは残っているんだ

この鎖を解いて、音楽を流そう

虹に向かう光のように

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*星に手をさしのべて~僕のMusic Life

*アントニオの歌~Antonio's Song - 偉大な師、友に捧ぐ(2010-11-2110:10:00

の記事を大変に参考にさせていただきました。

ありがとうございました。



# by libra-mikio | 2018-12-28 21:52 | Mic記 | Comments(0)
2018年 12月 27日

平穏な朝

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しらす漁の船か。

かもめがおこぼれを狙うために集まる。

漁師はかもめとは無縁だが、別に排除しようとは思わない。







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これは22度ハロなのか、幻日なのか。

もう、どちらでも良い。

ただひたすらに美しい。







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漁に飽いたか。

満腹か?

彼は一羽でそこに来た。

そして声も出さず口を何度も開ける。

あくび以外の何ものでもない。



# by libra-mikio | 2018-12-27 21:55 | | Comments(0)
2018年 12月 24日

みんな、メリークリスマス

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七面倒臭いことは置いといて、メリークリスマス!

重機だって、メリークリスマス!

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# by libra-mikio | 2018-12-24 21:04 | | Comments(0)
2018年 12月 22日

DEATH

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諸々のことから死を身近に感じている折り、新聞広告で目に止まったDEATH を読んだ。

装丁がよく、質感も高いので本屋でつい買ってしまった。


で、どうだったかと云うと、あんまり面白くなかった。

哲学のアプローチで死について考察しており、その手法は楽しめたが、根本的にキリスト教に裏打ちされた文化を前提に論旨の踏み込みをしており、やはり彼我の異なりについてGAPを感じてしまった。


死というコトソノモノよりは、それに向かい傾斜して行く際の心構えみたいなものを解説して欲しかった。

もちろんこの本でもその努力は認めるが、根本的に神との契約をベースにしている文化での展開である。


逆説的に言えば、僕にとっての仏教との良い肌合いを、改めて想起させてくれた本であった。

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# by libra-mikio | 2018-12-22 23:52 | 陰翳 | Comments(0)
2018年 12月 18日

氷点

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山奥の小川は完全に凍結していた。

真冬の知床であれば十分に肯うことができる光景である。


就業規則で定められた定年を過ぎた僕はこの一年、この小川のように凍っていた。

特殊な条件で再雇用契約を結んでくれた会社には感謝しつつも、やはり日々の業務において現役社員ではないという空気を感得せざるを得ず、割り切れぬ何かを常に背負っていた。

一方で世間では60代はまだ若いと言われ、実際、身近なヨット仲間は大半が70を過ぎてなお、嬉々として海に出る。

僕を取り巻く座標軸が極右と極左のように異なる中、自分の存在すべき座標点が解らなくなっていた。

しかし結論としては37年間勤めた会社の座標軸を充てがう他なく、要するに知床の小川のように凍っていった。







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こちらは斜里岳の融雪水が湧き出る遊水池である。

前掲写真のようにこの季節、水流の勢いのない川は完全に凍結してしまう。

ところが気象条件が同一であるこの水源池はどうだ。

凍っていない。

伏流水が時を選ばずこんこんと湧いて、湧き動くことにより凍結を寄せ付けない。


僕は凍っていた。

周りが寒くなれば自ずと凍る小川だったから。

では泉になれば良い。

湧き出る運動を継続し、凍らない泉に。

氷点を僕の主体性で変える。



# by libra-mikio | 2018-12-18 20:30 | Mic記 | Comments(0)
2018年 12月 16日

山の神

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一般的な日本語として「山の神」は女房を指す。

しかし実際の山仕事では、山の神は正しく「山」の「神」である。

毎年師走の12日、あるいは前の11日に山の神に対し、大なり小なり神事を行う(らしい)。

少なくとも道内ではそのようだ。

恥ずかしながら僕はこれまで山の神の神事に参加したことはなかった。

で、我が社の社有林業務が今年も怪我人なくできたこと、来年もそのように見守って頂きたいことを誓願し、二礼二拍手一礼を本気になって行う。







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とは申せ、ここに鎮座まします山の神は風雪に磨き抜かれ、なんと素朴でいらっしゃることか。

当然といえば当然だが、神主も巫女さんも居なくて、ムクツケキ男どもがマジに頭を垂れるだけである。

お供えとしてはワンカップ大関ただ一つ。

昔、ワンカップ大関のCMで、「神のみ前にありがたや~」みたいなのが流れていたが、正にその通り。

これを分析して、アニミズムだとかナントカ言うのはたやすいが、山で働く男たちにとってみれば実に大切で純な行事なのだ。







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この鳥居、純粋な木材でできている。

遠方の山は斜里岳である。

畏怖という言葉があるが、そして近年その言葉を聞いた試しはないが、当地ではごく当たり前に意識することなくそれを感じていることに対し、僕は畏怖の念を持つ。



# by libra-mikio | 2018-12-16 19:24 | Mic記 | Comments(0)
2018年 12月 15日

山仕事

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一言で山仕事、林業といっても実際にはピンと来ない方々が多かろう。

このように慈しみ育て成長した立木(りゅうぼく)を伐採し、市場に出し売却するのである。

野菜に置き換えれば、時間軸の長さが違えども基本は同じである。

そう、時間軸。

後輩達が立つ背後の落葉松林は、ほぼ50余年生である。







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生業であるが故に、50年生きた木を伐倒し、枝を払い、市場の欲する長さに切り揃えることに私情は挟めない。

これらの木材は、今後日本の何処かで人の役に立つためにトラックに載せられ、製材所に運ばれる。

その現場は荒々しく、一次産業の根源的な一部として、感傷のかの字もなく淡々と進行する。







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でも僕らは経済合理性だけで林業を行っている訳ではない。

伐れば植える。もちろん森林法によりそのことは義務付けられている。

しかし、コンプライアンスの観点のみではない。

今回の計画で都合6年に亘り伐採する総計300haの伐採跡地に、新たな命を植え込んでいくことは、お天道様の理に適うものだと信じているし、極めて自然なことだ。

企業が好き勝手に木を伐って、その跡地を顧みないなどということは企業のリーガルマインド、いや、公明正大に生きる一個人として決してありえない。

この苗が成木となるために、今後の50年間に、たとえ数十億円かかっても。



# by libra-mikio | 2018-12-15 19:43 | Mic記 | Comments(0)
2018年 12月 13日

寒気に立つもの

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4年半ぶりに斜里に行った。

久々であれば野山が微笑む初夏、と言いたいところだが仕事なのでこの時期も止むを得ぬ。

着陸間際のCAアナウンス、「女満別空港の天気は晴れ、気温はマイナス13度でございます」に心身を引き締める。

9時前に着き、一連の山仕事の今日の監査を終えたあと、斜里のホテルに向かう。

以前も思ったことだが、荒涼とした大地に人工物が黙念と立っている光景ほど寂しいものはない。







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名にし負う斜里岳。

まだ午後の3時半であるにもかかわらず、真横からの残日に照らされている。

クルマのエンジンを切れば物音一つしない。

徹底的な静寂空間の彼方に聳える山は、神々しいという形容を撥ね付ける。

なぜならば「神々しい」と言う語感が内包する人的なものから、それは全く超越しているからだ。







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夕景というものは、考えてみれば人間が存在する以前からあった訳だ。

そこに特別な意味を見出したのは、いつの時代の、どの生き物だったのだろう。

地球自体は46億年前にできたと言われるが、恐竜が陸に上がったのは僅か3億年前とも4億年前とも聞く。

その頃に入り日を見て感傷的になった初めての恐竜が居たとしたら、そのDNAが今なお生きているということなのだろう。



# by libra-mikio | 2018-12-13 19:56 | | Comments(0)
2018年 12月 06日

鎌倉夕景

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円覚寺(北鎌倉)の坐禅のあとは、気分次第だがよく鎌倉まで歩く。

鶴岡八幡宮から鎌倉駅までは小町通りを通る。

人の多さに辟易するが、自分もそのうちの一人であるから文句も言えない。

土曜坐禅会第二部は16時前に終わる。

するとこの季節では、小町通りを流すうちに陽が傾く。

なんだか映画のセットのような、横浜のラーメン博物館のような様子が面白い。







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とっぷり暮れた夜の小町通りも被写体にしたいが、母の晩ごはんの用意もあるから切り上げる。

鎌倉駅のホームでこんな夕空を見た。

駅のホームから夕映えを見る事ができるなんて珍しいと思った。

なるほど、考えてみれば風致地区の集合体であるここは、高いビルは建てられない。

すると横須賀線のホームから見える夕映えというのも、鎌倉ならではの風情だということに気付いた。



# by libra-mikio | 2018-12-06 19:50 | 陰翳 | Comments(0)
2018年 12月 05日

雲行き怪し

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今朝、まだ暖かかったのだが海に出ると、なんとも怪しい光景が広がっていた。

明日からは天気が下り坂で、最高気温は今日より10度近く下がるという。

まあ、昨日今日が異様に暖かだったせいもあるが、体に応えそうだ。


ところでここ半年ほど意識して使ってきた35ミリ(ライカ判換算での35ミリ相当、つまり昔のフィルムカメラでの35ミリという意味デス)の画角が、ようやく目に馴染んできた。

以前はX-T128ミリと50ミリがあればよいと本気で思っていた。

なんとなく35ミリも持ってはいたが出番はほとんどなかった。

しかし今ではX-Pro2+ライカ判換算35ミリのセットがほぼ定番になってきている。


それにしても、明日からの寒さは嫌だな。

既に喉がイガイガしてるし。

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# by libra-mikio | 2018-12-05 19:12 | 季節 | Comments(0)
2018年 12月 04日

存在感

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(かえるが苦手な人、ごめんなさい)

鎌倉の小町通りを歩いていたら、こいつに出逢った。

何という存在感だろう。

いでたちからするとこいつは日本蛙ではなく、中世ヨーロッパ蛙のようだ。しかも高貴。

あ、・・・イソップだ・・・いや、アンデルセンだ。

家に帰ってグリムだということが判った。

そう言えばグリム童話って、なんか子供相手じゃない、ダークな帳の向こうにあるような気がする。

怖いくらいの存在感。こいつを造った人は見事だな。



# by libra-mikio | 2018-12-04 20:28 | 陰翳 | Comments(0)
2018年 12月 01日

落葉松 晩秋

佐久ホテルの一夜は旭湯のおかげかぐっすりと眠ることができた。

チェックアウトは7時半以降です、という厳しい宿の掟があるので、昨晩買ったセブン弁当を7時に食う。

さて何処に行こうかとレンタカーを走らせると、幾ばくも進まぬうちになんとも素敵な光景が飛び込んできた。



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北海道、斜里の自社山林と見紛うばかりの老いた落葉松の並木。

ピークは過ぎているにしろ、晩い秋の風に見事に燻された黄金色。

折からの低い朝日が、落ち葉積もる道に、風雪に絶えた樹幹の影を横たえる。







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道路沿いの落葉松も見事な裳裾を見せながら、堂々とした樹高で誇らしげに屹立している。

こんな善い光景はめったにお目にかかれない。

この場所はそれぞれの季節にそれぞれの類稀なる風景を顕すだろう。

そう確信した僕は、晩春の芽吹き、初夏の清冽、黄落の初秋に、きっと何回も訪れるだろう。

新たな楽しみが生まれた。

東信・佐久。

来てよかった。

また来る。



# by libra-mikio | 2018-12-01 19:26 | | Comments(0)
2018年 11月 29日

旅の宿

今回は母のショートステイが急に決まったものだからなかなか希望エリアでの宿が取れず、ようやく宿泊地を佐久に変えて、今夜の宿を取った。

その名も佐久ホテルという。

貧乏旅行だからもちろん素泊まりで、宿賃も、入湯税と消費税を合わせ5,816円。安上がりであると喜ぶ。



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チェックインを済ませ、初めてヤッカイになります、よろしくと仁義を切ると、中居さんが親切に説明をしてくれた。

まずこの宿では、あまちゃ・天茶(甘茶ではなく)を召し上がって頂きたい、この天茶は当地特産の・・・と口上。

更にお好きであれば天茶に焼酎を入れると大層美味である、と。

この説明は僕にとり実に有益な情報であり、早速いただく。

うん、美味、すこぶる美味。

あんまり飲むと風呂で倒れるので、今はそこそこにし湯を尋ねると、当館の湯は湯船の真下1メートルに源泉があり、コンコンと湧き出る湯は豊富なメタケイ酸を大量に含み・・・と口上。

すげぇ、ということで早速入湯。

風呂の写真は撮らなかったが、うーん、大地から出てきたばっかりといった泥臭さ(気分よ)があり、そこらヘンの小洒落た温泉にはない一本気ないい湯である。

(そして後々、この湯の凄さがわかってくるのだ)







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湯上がりに寝間着とドテラ姿でまたも件の囲炉裏に戻り、あまちゃでかっぽれの続きを行う。

改めて宿の様子を窺うと、かなり凝った造りである。

ここはホテルという名の旅館と考えてよいが、どちらかというと地場の名料亭として(佐久という土地柄)鯉料理が名物のようで、かなりハイソな面々が、しかし奥ゆかしく案内されながら行灯の灯る部屋に吸い込まれてゆく。

ふと目をやれば「当館の部屋名は実際に泊まった文人の名を使っている」との札が。

本当だ。

行灯をよく見れば、白秋さんとか、牧水さんとか、藤村さんとか華やかな名前の部屋が続く。

(更にそして後々、この宿泊者たちの凄さがわかってくるのだ)







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なんと、井泉水(せいせんすい)さんの間もある。

荻原井泉水。そう、尾崎放哉が師と仰いだあの井泉水である。

すげぇ、を心の中で連発しながら、偶然ではあるにしろ、またリーズナブルではあったにしろ、何という凄い宿を選んだことかと、かっぽれを踊りながらタマシイは佐久の夜空に欣喜雀躍したのであった。




凄さについての追記:

佐久ホテルHPより抜粋・・・

武田信玄も入湯し、謝礼に拝領した掛軸が残っています。中軸には長さ一尺、太さ一寸の円柱形水晶一本棒が使われ、覗けば旭が見えることから「旭湯」となったと伝えられています。(注:宿の名前とは別にこの源泉の名前が独立しており、旭湯と呼ばれる)

●若山牧水、島崎藤村、北原白秋、種田山頭火、小林一茶、葛飾北斎など文人墨客にも愛された温泉です。

白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりける(大正111014日 佐久ホテルにて 若山牧水)(注:あの、呑兵衛の聖句といわれるこの歌は、なんとこの宿に滞在中に詠まれたのであった!)

そして何より凄かったのは・・・中居さんと思い込んでいた人が、現在の女将であったこと!



# by libra-mikio | 2018-11-29 19:55 | | Comments(0)