串田孫一の随想に、春を淋しがる人、というものがある。
僕がこの文章を知ったのは1974年だから、実に40有余年が過ぎている。
しかし僕は、春を淋しがる、ということが本当にあることなのか理解できなかった。
つい、先日までは。
文中、野辺のバス停に立つ、赤ん坊を背負った若い母親があんまり沈んだ顔つきなので、思わずどうかされましたかと尋ねた筆者に対し、「あんまり春の来かたが早いので、それで淋しくなってしまったところです」と答えるのだ。
その日、というのはちょうど一週間前なのだが、僕は初めて春の到来を本当に淋しく思った。
次から次へと発生する会社での問題に精一杯対応していたその日の朝に、春について感じたことを、僕は夜にまとめようと思っていたが、実際にはそのような余裕はなかった。
そうであろう予感があり、電車の中で、感じたままに、自分に対しメールを送っておいた。
・・・・・
春が来るのが嫌なのではありません。春を待ち焦がれていたんです。
その待ち焦がれていた春が、私の準備ができないうちに来てしまって。
だから寂しいんです。
だって、電車の窓から見えるおうちの庭の、雪柳がもう真っ白なんですもの。
昨日まで、その満開の予兆に気付かなかったのです。
春そのものが淋しいのではなく、自分自身が淋しいんです。
・・・・・
こうして、巡り来ることが当然である春に対し、春を淋しがるということが本当にあるのだな、と40年ぶりに納得したのである。
今日、法政大学、多摩キャンパスにて。X30。